2026年3月9日月曜日

官と民

1868・明治元年撮影説根拠資料 1865・慶応元年撮影説根拠資料 「長崎に於けるフルベッキの人脈」(村瀬寿代氏)88ページ 人物から見て撮影時期を明治元年と推定したが、写真にあるスタジオ自体、明治元年に実際に使われていたかどうかを上野氏に問い合わせた。この点に関して、上野氏は、「済美館の写真の右端に欄干が見えており、知る限りでは、明治になって彦馬が輸入したものである。慶応年間にはスタジオはもっと粗末で、これらの写真がとられたスタジオ自体慶応年間にはなかったもので、明治になって建てられた。どちらの写真もスタジオの石畳、敷物、左端にある戸が同じことから、ほぼ同時期に撮影されたものなので、二枚とも明治二年にフルベッキ上京に際して記念に撮られたと考えるのが自然だろう」と言う。しかし「明治元年に撮られた可能性は否定できない」としている。 「写真の今昔」(日本写真興業通信社・昭和10年)著者松本碧枝氏は88ページで次ぎのように述べている。 「彦馬の写真館は、最初は硝子(ガラス)張の屋根もなく白木綿の日除けで光線を加減し、背景は白木綿や鼠色の幕をたれ、これに大浦外人居留地から買い込んだロクロ細工の手すりみたいな古欄干を配置したものにすぎなかったのである。すべて屋内庭園における露天撮影であった。 明治十年丄頃板硝子が輸入したので屋根に硝子を入れた写場を始めて作り背景道具立てなどそれに相応した立派なものになった。間口三間奥行六間堂々たる二階建ての洋館で一時上野彦馬撮影局と書いた招聘(かんばん)も出し自ら一等写真師と称したものである。」 「これはフルベッキのことばと見て間違いないが、これが理由で「新町」のは「佐賀」で、「立山」のは「幕府」とされてしまった。事実は「新町」に置かれたのは「済美館」であり「立山」に置かれたのは「語学所」で、どちらも幕府の学校、名称は違うが全く同じ学校である。73)この記述はフルベッキが後に回想したもののようだが、彼は明らかに学校とその設置された場所を混同している。人の晩年の記憶など信じるわけにはいかない。単に幕府と佐賀の学校の知識がないために、こういった間違いが起こっただけなのだ。佐賀の生徒達の写真については、振り出しに戻って考え直さなければならない 。では佐賀藩士との写真(致遠館の生徒達との写真)を写っている人物から考察するとどうなるのであろうか。グリフィスのVerbeck ofJapanにこの写真に関する記述がある。「彼が[フルベッキが]故郷[アメリカ]に送った、教師と生徒達の写真は日本の歴史家にとっては非常に価値ある資料であろう。」 村瀬氏は、教友ワイコフはフルベッキの記憶力について感嘆するほどなのに、なぜフルベッキ師が記憶違いだと断定したのか? 中島永元 弘化元7月16日(1844年8月29日)[5]、佐賀藩士中島永遠の長男として佐賀鬼丸小路に生まれる[6][7]。藩校弘道館、次いで蘭学寮に学んだのち、慶応元年(1865年)に副島次郎(種臣)、大隈八太郎(重信)らと長崎に遊学。幕府直轄洋学校済美館で蘭学を研究するかたわら、宣教師グイド・フルベッキから英語を学んだ[6][8]。慶応3年(1867年)には佐賀藩が長崎に新設した蕃学稽古所(のちの致遠館)の教官に抜擢されたが[9]、戊辰戦争が起こると職を棄てて江戸に向かい、国事に奔走した [6][8]。 明治元年末に撮影されたとすれば本人が被写体にはなりえない? 「(前略)ここに二枚の写真があります。(チョンマゲ大小の書生三十名ばかりと、他に五十名ほどの人々主人を取巻いて写る) ハイ日本第一の写真師でしょう、上手でした。長崎の上野と申す写真師です。私は長崎に居りまして、この書生はみな長崎で教えたのです。 一方は立山で、一方は新町。新町のは佐賀藩のお侍、立山のは幕府のお侍。どうも顔付に直ぐ見えます。幕府の方は余程進んで居りました。どうも幕府の侍の方は文明向の顔しております。」   (岩波文庫版・篠田鉱造著『明治百話』より) 「慶應元年八月長崎府新町二済美館ヲ設立シ後廣運館ト改称ス明治初 年同館担任教師「フルベッキ」氏東京出発ノ時重ナル門人記念トシテ新大工町上野彦馬寫真館二於テ撮影セリ」 との説明文 「附記   安政五年七月(西暦千八百三十八年) 「徳川十四代家茂公」英語伝習所ヲ岩原郷官舎内二置キ楢林栄左工門、西吉十郎頭取タリ蘭人「ウイルヘルス」「デボーゲル」英人「アレッチエル」等相次デ教師タリ文久二年「西暦千八百六十二年」片渕郷組屋敷及武館二移シ英語所トシテ中山右門太頭取タリ文久三年七月(西暦千八百六十三年)立山奉行所境内二移シ何禮之助(礼之)平井希昌(義十郎)学頭タリ同年十二月江戸町二移シ○ ○所ト改メ米人(元蘭人) フルベッキ教師タリ慶應元年正月假語学所ト改メ 魯・英・蘭・佛・各語学ヲ教授ス・ 以下・ 」(長崎県立博物館所蔵本) 公的・官的資料 「慶応4年8月25日の仕組所よりの達書には長崎藩学所の儀、致遠館・・とあり致遠館と呼ばれたのはさらに後であることがわかる」 (「日本のフルベッキ」村瀬訳・133頁) 私的・民的一次資料 「致遠館は、表向きは藩校だが、実際は藩士の大隈八太郎(重信)らが商人から寄寄付金を集めて1865年(慶応元年)に設立した私塾から出発した。」(「明治維新とあるお雇い外国人・フルベッキの生涯」大橋・平野共著150頁) 写真は、明治2年折田市彦、岩倉具定、岩倉具経とキャプションがあるが、フルベッキ写真に写る岩倉兄弟より若年時代が明らかで慶応年間以前の撮影である。ロクロ状の欄干があることから明治以降の撮影であると推定されたと思われる。「岩倉具視は佐賀の教育に感心し、息子たちを佐賀で学ばせたいと考えていた」(日本のフルベッキ・村瀬訳130頁) 「フルベッキ写真は明治元年の終わりに岩倉兄弟が長崎の佐賀藩校致遠館に留学することを歓迎しての記念撮影されたもの」(「フルベッキ写真の真相」高橋信一氏・9頁) 東山道鎮撫隊には、佐賀・土佐・薩摩などの藩兵が参加しており、長崎を通じて交流があった人物が多い。 例えば、参謀に板垣退助(土佐)、伊知地正治(薩摩)などが任命されており、彼らは長崎での活動経験を持つ。岩倉兄弟が長崎での人的接点を通じて、隊員との信頼関係を築いていた可能性があるとすれば、戊辰戦争前に致遠館で学んだ可能性がある。以下の写真参照。 (フルベッキ書簡集・高谷著より)

2025年10月6日月曜日

神の人エリシャ

【Ⅱ列王6章8-23】 「神の人」と呼ばれたエリシャは、火の戦車と火の馬によってエリヤが天に上げられる前に、「あなたの霊の二倍の分をください」と願い求めました。その結果、塩による水の清め(Ⅱ列王記2:21)、つぼの油の尽きない奇跡(4章1節以下)、死んだ子どものよみがえり(4:35)、アラムの将軍ナアマンのいやし(5章以下)、水中から斧を浮かばせる奇跡(6:6)、さらに敵国の王の思いを遠隔地から察知する知識の賜物など、多くの力が与えられました。 そのため彼はいのちを狙われ、大軍に包囲される危機に陥りますが、エリシャは天使の大軍が敵を囲んでいるのを見せられました。これは、ヤコブが天へのはしごを見て、天使たちが上り下りしているのを見た光景を思わせます。罪とサタンによって支配され、神の園から追放されたこの世に、神は再び近づかれ、解放の業を現されたのです。 ビリー・グラハムは著書『天使』の中で、「天における戦いは、地上の核戦争をもはるかに凌ぐ、大天使と悪魔との戦いである」と述べています。彼はまた、救いのための集会の最中に、不信の霊サタンと戦う天使たちの助けと、聖霊の働きが現れることを実感すると語っています。伝道集会のために祈りが要請されるのは、救霊という霊的解放のために天が動くことが必要だからです。獄中のペテロに死が迫っていたとき、教会は熱心にとりなしの祈りを続けました。その結果、天使が遣わされ、奇跡的に彼を脱出させました。 フォースクエア教団のジャック・ヘイフォード牧師は、礼拝堂の四隅に賛美の天使ケルビムが立つとき、主の臨在がより明らかにされると語っています。この世界は罪によって闇の霊に支配され、欺き、盗み、殺し、滅ぼす破滅の道をたどるようになりました。しかし子羊が罪を負いのその血が幕屋に注がれることによって、主と天使たちを迎える備えがなされました。御子の贖いの血潮は、私たちの罪を完全に清め、サタンを退け、聖霊のご支配のもとに私たちを解放する力です。 神は、外側から内側へ──天使の仲介からご自身の内住へ、外面的な体から内面的な霊へ、一時的な恵みから永遠の救いへ、間接的な介入から直接的な介入へと、聖所から至聖所へ進ませながら、ご自身のいのちを与えてくださっています。今日エリシャに優る恵が注がれています。ビリー・グラハムは、預言者たちよりも偉大な者とされている神の子であるクリスチャンが「自分は取るに足りない者だ」などと決して言ってはならない」と語りました。 主が私たちの身代わりとなって十字架で呪いを受けてくださったゆえに、私たちはサタンの訴えから解放され、聖霊が内にとどまってくださいます。神の宮とされた私たちのうちから、霊を通して思いへ、そして言葉へと、神のいのちが泉のように川となって流れ出ます。主がおられるところには、何億もの天の軍勢がともにおられます。 私たちはエリヤやエリシャの時代のように、圧倒的な敵の軍勢に取り囲まれているように見えることがあります。しかし、霊の目が開かれるとき、神の霊が私たちのうちで天に上り下りしているのを知るのです。自らの無力さを覚えつつも、御子の十字架と流された贖いの血を仰ぐとき、すべての罪は取り除かれ、私たちを責める闇の霊は退き、聖霊の平安と愛と喜びに満たされます。 みどりのまきばに

2025年8月5日火曜日

中島聖堂・中島天満宮・上野彦馬邸配置図

「文芸評論家・中渋谷教会牧師・二松学舎大学学長」 ―佐古純一郎の祈り― 自叙伝的著作「大いなる邂逅(かいこう)」(国会図書館デジタルコレクション)に主イエス・キリストにめぐりあうまでについて記されています。 「阿波の徳島と言えば、鳴門の渦潮と十郎兵衛の悲劇と、あのにぎやかな盆踊りとを人々は思うのが常である。蜂須賀の城下町徳島からバスで二時間、吉野川の支流に沿って山の中に入ってオロノという小さな村の、真宗寺と呼ぶ小さい西本願寺の末寺で私は生まれた。母の実家である。・・・私を産んでからら母は二カ月と生きていなかった。」 「徳島中学に入学した昭和六年の秋、「先輩の賀川豊彦の『一粒の麦』映画を学校全体で町の映画館で鑑賞したことがあった。その賀川豊彦の信仰の師、ローガン博士はまだ徳島に住んでいてトヨヒコ・カガワについてなつかしそうに私たちに話してくれた。」 朝鮮全裸南道光州東中学校に転校を経て二松学舎専門学校に入学。在学中、亀井勝一郎に師事し近代日本文学評論家への道を決意。日本大学法文学部宗教学科に入学。 44年海軍の招集を受け悲惨な戦場を体験。戦後、日本基督教団中渋谷教会の修養会で、はじめての祈りをささげた。 「天にいます真の神様。あなたを離れて独り苦しみ、あなたにそむいて、罪を犯すことの多かった、この罪深い私を限りない愛の御心から召し給わんとて、かくも良きチャンスをお恵み下さいましたことを心から感謝いたします。 ・・・」 「祈りをささげる私の頬を喜びと感謝の涙がとめどもなく流れるのであった。祈ることが許された、この自分が神に祈ることが出来たのだ、そういう喜びが、私の五体の隅々にまでしみわたるのであった。」 夏目漱石、芥川龍之介、太宰治など日本文学についての約百冊に及ぶ評論は、神との対話から生み出された深い洞察がみられる。三浦綾子作の実話に基づいた「塩狩峠」は「信徒の友」の編集長時代に連載された。 その傍ら宇都宮大学、聖心女子大学、上智大学、日本女子大学でも教鞭をとられた。 67年から中渋谷教会牧師として20年間奉仕され、86年には二松学舎大学長に就任。 NHK「心の時代」で「新約聖書を語る」でお話しされるなど講演活動され、2014年5月、95歳で主の御許に召された。      (文責 南沢満雄)