2014年12月26日金曜日
2014年11月25日火曜日
フルベッキ写真慶応年間撮影説の資料
1865年撮影説の根拠参考資料
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写真の説明〈キャプション〉
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フランス語でLe fils duTaikoun entoure de Yakouuniness (Japoan)と説明文。Taikounは大君、Yakouninessは役人。お役人に囲まれた大君の子供たちと言う意味。維新後だとすればミカドの子供と書かれたはず。
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雑誌「太陽」1895年刊の写真説明〈戸川残花〉
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「維新前の長崎洋学生」STUDENTS OF FOREIGN LANGWAGES AT NAGASAKI BEFORE RESTORATIONとキャプションがある。
戸川は「氏が、佐賀の学生と共に撮影した写真を見ると、30年前の武士が眼前に現れるような感じがする。氏は特に佐賀の藩士に知人が多く、村田若狭が教えを聞いて受洗し、キリスト教徒になったのは今から29年前のことであり、わが国におけるキリスト教徒のさきがけである。」と記述。
30年前は1865年(慶応元年)。
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グリフィスの証言
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「日本のフルベッキ」〈村瀬訳〉の中でこの写真は日本史上重要な写真で大隈重信、岩倉兄弟が写っていると証言。
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髪型とグリフィスの記述
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グリフィス著「皇国」(「明治日本体験記」山下英一訳・平凡社東洋文庫)P130で三つの髪型でその思想を見分けたとある。
西洋型(散髪・ざんぎりあたま)、王政復古型(惣髪)、伝統的サムライ型(半髪・ちょんまげ)であるが写真の人物は例外なく王政復古型〈惣髪〉。 |
島田隆資『日本歴史』』(308号・332号:吉川弘文館)
「維新上解明されていない群像写真」についての寄稿文で江副廉蔵氏のご子息夫人からの昭和47年5月20日の手紙を紹介 |
東京大田区在住の江副暢子女史(日本画家・77歳)からで「・・この写真は私の舅(義父)、江副廉蔵の記念のため私が持っているものでございますが、もしお望みでございましたらいつでもお目にかけます。・・・江副廉蔵は前列、左から三人目に座っております。これは生前の父から直接聞きましたからたしかでございます。またいちばん左はしは木戸さんか、岩倉さんでございます。西郷さんのほか、伊藤さんも大隈重信も石橋重明も居ると父から聞きましたが、私はどれがどなたである忘れてしまいました。まことに残念でございます。・・・」島田氏はさっそく江副家を訪問し、写真を見せてもらい、墓地も訪問したいきさつが述べられている。
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『五代友厚秘史』(1960:五代友厚75周年追悼記念刊行)353ページ
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「グラバ-は武器輸入者であったばかりでなく、文明の輸入者でもあったことを銘記しなければならない。つづいて、日本の働きぶりを見ると、当時長崎で薩摩屋敷に隠れ、幕吏に追われていた桂小五郎の危難を救い、また1865年上海から蒸気機関車を輸入して、大浦海岸に鉄道を敷設して運転した。・・」
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坂本龍馬
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1865年9月9日姉への手紙「私は20人ばかりの同志を率い、今長崎の方へ出て訓練に励んでいます〈亀山社中〉。」(龍馬書簡集)(20人は神戸海軍操練所からの浪人で陸奥宗光もその一人)
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中岡慎太郎
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慶応元年1865年5月28日 中岡慎太郎 「胡蝶丸」乗船、鹿児島に向う閏 5月 4日 中岡慎太郎 長崎に入る
閏 5月 6日 中岡慎太郎 鹿児島に入る
閏 5月16日 中岡慎太郎 西郷吉之助と「胡蝶丸」で下関に向う 閏 5月18日 中岡慎太郎 西郷吉之助に下関寄港を要請するが失敗、佐賀関で下船、西郷は京に向う 閏 5月20日 中岡慎太郎 佐賀関を出港、下関に向う 閏 5月21日 中岡慎太郎 下関に入り西郷吉之助下関に入らずを坂本龍馬、桂小五郎に報告 閏 5月29日 坂本龍馬、中岡慎太郎 京に向う |
後藤象二郎
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後藤象二郎は、土佐藩の上士で、義理の叔父に当たる参政・吉田東洋の暗殺により失脚するが、尊皇攘夷(じょうい)派の衰退とともに藩政に戻り、土佐勤王党を弾圧し、武市半平太や岡田以蔵の取り調べを行い、攘夷派からは敵として恨まれたが、その後、参政となって龍馬が結成した海援隊の後ろ盾となり、龍馬と共に大政奉還に尽力した人物
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岩倉具視
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「1865年ごろには、岩倉はひそかに薩摩の出身者とつながりをもつようになり」〈坂本龍馬と明治維新・マリアス・ジャンセン著・平尾・浜田訳291ページ〉
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横井小楠
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松浦玲著「横井小楠」(朝日選書)P292において「神戸海軍操練所から佐平太、太平の兄弟を引き取った小楠が二人を長崎に学ばせるにあたって、おそらく慶応元年(1865)の春、長崎まで足を運んだ可能性はある」
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日下部太郎
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「日下部太郎は1845年福井藩士の長男として生まれた。幼名は八木八十八(やぎやそはち)といい、幼少の頃から漢文に親しみ、13歳から藩校明道舘で学ぶ。1865年、20歳の八十八は藩命により長崎の幕府直轄の語学所、済美館に留学。このときの英語教師が宣教師フルベッキ。」
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中村宗見
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薩摩藩英国留学生・1865年4月一行19名薩州串木野羽島でグラバー商会の香港行きの蒸気船に乗り、密かに英国へ向かった。(25歳)
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寺島宗則(陶蔵)
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1865年薩摩藩英国留学・視察員
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鮫島尚信(誠蔵)
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1865年薩摩藩英国留学(21歳)
「明治の若き群像ー森有礼旧蔵アルバムー」犬塚孝明・石黒敬章共著・平凡社)では子供はフルベッキ師長男と断定。9ページに鮫島尚信のベートーベン(ライオン)型の写真がある。小泉元総理の先祖の同郷人とすれば、同じロンドン大学の先輩でもあり、激務のためパリで倒れた「気高き働き人」を元総理は深く尊敬されて同じ髪型にされたのかもしれない。
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森有礼(金之丞)
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1865年薩摩藩英国留学(19歳)
1865年(元治2年) 3月22日 沢井鉄馬と変名して薩摩を出立。1865年(慶応元年) 5月28日 ロンドン到着。 T・グラバーの紹介によるL.オリファント下院議員の世話で英語家庭教師につき英語を学習。1865年(慶応元年) 6月 山尾庸三の案内で兵器博物館、造船所を見学。1865年6月7日 ロンドン大学教授(化学)ウィリアムソン博士の案内で、ベッドフォードの鉄工所で農耕機械を見学、ハワード農園で近代的農業技術を知見。
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別府晋介
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西郷隆盛は「晋どん、もうここでよか」と別府晋介に介錯を頼み自刃して49才の生涯を閉じた。
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西郷隆盛
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林謙三(安保清康)はかねて交流のあった西郷隆盛、坂本龍馬他が国府温泉で会合すると聞き参加して日本国防海の急務を訴える。そして「保安年代以前の古制に則り兵政両権を、王室一途に帰せしめること」を説く。西郷大いに
共鳴。 謙三は再び長崎に帰り薩摩低に住む。長崎港停泊中の英国軍艦アーガス号ラウンド艦長に乗船を願い、刀を海に捨て許可さる。(安保清康自伝) |
西郷従道
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「維新直前の数年間、フルベッキ博士は薩摩、長州、土佐や他の地方の藩士のおびただしい訪問を受けました、かれらは絶えず、長崎を経由して旅をしており、1868年に実現する出来事についてお互いに議論していたのでした。ほとんどのものは以前外人に出会ったことはありませんでしたが彼らの中に、小松、西郷兄弟、副島やほかの人々のようにこの重大な時期に著名になった者たちが名を連ねていました。
(神学博士 ギドー・フリドリン・フルベッキ師
Rev.Guido.Fridolin Verbeck,D.D. M.N ワイコフ教授1909年講演) |
大久保利通
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小松帯刀
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村田新八
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伊藤博文・井上 馨
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長州の首脳部は伊藤博文と井上聞多の二人を長崎に送り二人は長崎の薩摩屋敷に滞在した。
(ジャンセン著「明治維新と坂本龍馬」)
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品川弥二郎
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高杉晋作
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1865年3月、伊藤博文、高杉晋作、長崎にグラバーを訪問し(写真)英国行きを相談したが「また、幕府が攻めてくるかもしれないのに、高杉は長州藩を離れている時ではない。早く下関を開港しなさい。」と進言され、晋作と伊藤はイギリス行きを中止し、下関を開港すべく帰っていった。
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(大室寅之祐)
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① ドナルド・キーン「明治天皇」角地幸男訳(新潮社)下巻374頁引用
「日本駐在英国公使クロード・M・マクドナルドの一通の書簡は、ほんの束の間ではあるが喜ばしい天皇の姿を我々に見せてくれる。『ノエル提督と我々の艦隊の将校のために開かれた午餐で、私は天皇の真向かいに座った。ナイフとフォークをせっせと動かしながら、陛下はまわりの者たちと大層親しげに談笑していた。天皇の両脇に座った有栖川宮と閑院宮は、極めて慇懃に天皇に応対していた。しかし伊藤(博文)侯爵と(私の隣にいた)井上(馨)伯爵は、天皇とまったく対等の間柄のように話し、冗談を飛ばしてはこの太陽の直系の子孫たる人物を大笑いさせていた。それは私にとって大いなる啓示であり、私をすこぶる愉快な気持ちにさせた。ミカドであるにもかかわらず、この人物は実に人間味にあふれているのである。』」
② ホームページより「明治天皇と西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬をはじめとする明治維新に貢献した人々の集合写真を紹介した。 その後、平成14年5月、明治天皇の孫に当たられる中丸薫さん(国際政治評論家)が「真実のともし火を消してはならない」(サンマーク出版)と言う本を出版され、同じ写真が紹介された。 私も本心、あの写真は本物なのか、偽者なのか半信半疑でいたが、これで私の心の中では、かなり信憑性が高まった。
明治天皇には大正天皇のほかに、千種の典待に生ませた第1子があった。それが中丸薫の父である堀川辰吉郎だそうである。なぜ長男の堀川が皇位を継承できなかったかは、大正天皇の母である柳原の局の背後に居たのが大隈重信であり、千種の局の背後に居たのが岩倉具視であって、当事の政治状況は、大隈派と組んで国政を進めなければ、国が成り立たない状況に立たされており、明治天皇の判断で大正天皇が皇位を継承され、堀川は頭山満に預けられたのだそうである。「謎多き明治天皇」―明治天皇すり替え説―孝明天皇の子どもである明治天皇は皇位継承の際、すり替えられたというのである。天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れをくんでいた。そして、南朝は99代の後亀山天皇で絶えたとされており歴史上では滅亡したことになっている。しかし実は、南朝である後醍醐天皇の玄孫の更に孫くらいに当たる人物に大室寅之祐という人物がおり、それを長州藩が育てており、伊藤博文、桂小五郎などが担ぎ上げて天皇のすり替えを行ったというのである。孝明天皇は中山慶子の間に睦仁親王をもうけたが、睦仁親王は女官たちに囲まれて育ち神経がこまやかで気が弱かったとされている。そして孝明天皇が崩御されると、睦仁親王は16歳で即位した。しかし即位した人物は、身長180センチ体重、90キロの巨漢で、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしていたと言われており、女官と遊んでいた人物とはかなり違っていたといわれている。また、田中光顕伯爵は「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言している。また、「中山忠能日記」によれば、1867年7月8日「新帝は学問所で遊戯をして手に負傷した」とある。16歳にもなって女官達と遊ぶとは、あまりにも子ども過ぎて知能も遅れていたのではないか。日記には、このあと宮中に侍医が呼ばれたこと、慶子が武士を使って子どもほどもある仏像の包みを中山家に届けさせたことなどの不審な記述が載っている。この仏像はたぶんに睦仁の亡骸ではないかと想像できる。睦仁は岩倉具視らによって買収された侍医の手で暗殺されたのではないだろうかと中丸薫さんは推測されている。こうした一連の事情を考慮すると、大室寅之祐(明治天皇)は即位されるまでは比較的自由な身でありまた、長州に居たことで長州藩、薩摩藩の武士とも交流があったことが考えられ、大室寅之祐と明治維新に貢献した人達が一緒に写真に収まることが出来たのか理解できる気がする。又政界の一部の圧迫を受けてこの写真の本当のことが発表されなかった理由も理解できる。(この写真は雑誌「太陽」に佐賀藩の学生達として紹介された)
③ 「明治44には、桂内閣を倒すことになった南北朝の正閏論争に際して、天皇自ら学問上の争いに介入するという不思議な行為によって親しく南朝正統系を採択した。」
(「二人で一人の明治天皇」松重著・たま出版146頁)
④ 「慶応元年3月、高杉と伊藤は大室寅之祐を連れて長崎に行き、別行動の桂・村田・井上と共に上野彦馬の写真館を訪れた。そしてそこでフルベッキ親子を囲む「勤皇志士の記念撮影」に加わっている。なお、この時の長崎行きは、表向きには上海渡航計画のためということになっている。」(「二人で一人の明治天皇」225頁)
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広沢真臣
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「写真集 近代日本を支えた人々:井関盛艮旧蔵写真コレクション」「上野彦馬歴史写真集成」、他に慶應3年8月長崎遊学中の渡邉蒿蔵ら数人と上野彦馬の写場で撮った写真が存在する。
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大村益次郎
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長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。明倫館兵学寮総官・教授として歩・騎・砲兵士官教育を行った。
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大木喬任
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「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士写真」、「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「江藤南白」
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副島種臣
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早稲田大学の源流といわれる長崎の「致遠館」は1865年、大隈八太郎(重信)らが商人から寄付金を集めて設立した私塾から出発。大隈は西洋かぶれとみなされている自分が表面に出ると藩に英語学校の設立申し出を却下されるおそれがあった。そこで、学頭に副島二郎(種臣)をすえることを思いつた。(明治維新とあるお雇い外国人・フルベッキの生涯:大橋昭夫・平野日出雄著)
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大隈重信
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「もしフルベッキが来日しなかったら、今日の早稲田大学は無かったかも知れない、といっても過言ではないでしょう。なぜなら、幕末に長崎にきた彼が、キリスト教布教のかたわら英学を教え、そこで学んだ大隈がやがて日本の近代化をめざして、東京専門学校を創立することになったからです。それほど彼は、若き大隈の識見と人格形成に大きな影響を与えた人だったのです。」(早稲田大学ホームページより)
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横井大平
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「陸奥宗光」に掲載の写真は慶應2年4月留学前に陸奥宗光らと上野彦馬の写場で撮影された。留学中の写真は「ラトガース大学グリフィスコレクション」に残っている
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横井左平太
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「陸奥宗光」に掲載の写真は慶應2年4月留学前に陸奥宗光らと上野彦馬の写場で撮影された。留学中の写真は「ラトガース大学グリフィスコレクション」に残っている
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黒田清隆
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岩倉具綱
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「明治30年2月、第3巻4号「太陽」880ページ」
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(なかの たけあき)藩役人・政治・官吏:1844(弘化元)~1898(明治31) | 佐賀藩士の子として生まれる。1865(慶応元)年長崎に遊学し、宣教師フルベッキから英語を学ぶ。維新後、上京し、1871(明治4)年より外務省に勤め、条約改正掛を命ぜられ、条約改正草案を作成した。また、岩倉遣欧使節団に加わり欧米諸国を視察している。帰国後、フランスやオランダの公使館に勤めている。その後、大蔵省、さらに長崎県知事、神奈川県知事を務めた。 |
2014年11月21日金曜日
仙太郎の銀板写真
仙太郎写真
660万円で落札! 写真で写された最初期の日本人のダゲレオタイプ 深川雅文 2001/05/18 23:00
去る5/11、クリスティーズ・ロンドンにて「日本人が被写体となった」最古の写真と見られるダゲレオタイプがオークションに出た。この件については、共同通信の配信で東京新聞などが5/4の紙面で報じていた。すでに「日本人が被写体となった最古のダゲレオタイプ」を2点収蔵している川崎市市民ミュージアム(横浜美術館も同類のダゲレオタイプを2点所蔵する)にもロンドンから取材が行われ、同僚の林学芸員が応対した。 写されている人は、1850年に遭難しアメリカ船に救助された永力丸の船員、仙太郎である。オークションに出たダゲレオタイプは、川崎、横浜のものとはサイズが異なり、それらが撮影された日時とそう離れてない時期に撮られたものであることは推察できるが、それ以上の時期的特定は難しい。このダゲレオタイプについては、すでに97年に、当館のダゲレオタイプが最古らしいとの調査を進めている段階で所在を確認していたものである。 今回のオークション出品のニュースをつかみ、どうにか日本に取り戻せないかとも考えたが、予想される金額からして川崎、横浜では収集は難しく、その行方を見守っていたが、最終的に、アメリカ・マサチューセッツ州の博物館ピーボディ・ミュージアムが落札し収集することになった。同館は、日本関係のコレクションで有名なミュージアムであり、しかるべきところに入ったわけで、個人的にはよかったなとほっとしている。マニアックなダゲレオタイプの個人コレクターに流れた場合、公の領域からは再び消えてしまうことがままあるからだ。これで、永力丸の船員の写真が計5点、公的な機関に収蔵されたことになる。いずれ展覧会を企画したいと考えている。
ゴ-ブル
| ゴーブルGoble,Jonathan (1827.3.4-1896.5.1) | ||||
| 引用文献「ジョナサン・ゴーブル 『摩太福音書』の研究 :川島第二郎著(明石書店)」 『ジョナサン・ゴーブル研究』川島第二郎(新教出版) "JONATHAN GOBLE of JAPN -Marine,Mssionary,Maverick-" F.Calvin Parker | ||||
| 「contents.doc」をダウンロード 「introduction.doc」をダウンロード 「the_making_of_a_maverick.doc」をダウンロード | ||||
「14-19goble.doc」をダウンロード | ||||
| 「notes.doc」をダウンロード | ||||
| 「Bibliography.doc」をダウンロード 「indextotal.doc」をダウンロード | ||||
| 1827(文政10) | ウエイン村キュウカで誕生、父ガーショム23歳、母エミイ22歳。長男としてその後5人の弟妹をもつ。 | |||
| 1829 | 2・3父ガーショム、バプテスマを受ける。 | |||
| 1830(文政13) | ||||
| 1832(天保3) | ||||
| 1833 | 2・3 母エミイ、バプテスマを受ける。 | |||
| 1838(天保9) | 7・28父ガーショム死去。34歳。 | |||
| 1843 | 「アメリカンバプテスト外国宣教総協議会」から奴隷解放を高調する群れが「アメリカンバプテスト自由宣教協会(ABFM)を形成。続いて、45年「南部バプテスト協議会(SBC)」、46年残された北部系が「アメリカンバプテスト宣教師同盟(ABMU)」を組織して三分裂する。 | |||
| 1846(弘化3) | 金銭強要の脅迫状をシラキュースの雑貨店主ブレに送り強盗未遂罪でオーバン刑務所に二年服役 | |||
| 1847(弘化4) | 10.2 獄中で回心、その体験を母教会へ書き送る | |||
| 1848(嘉永元) | 2.E・P・オルニー牧師着任。31歳。6・2 オーバン刑務所より出所。 8.6バプテスマ | |||
| 1850(嘉永3) | ||||
| 1851(嘉永4) | 12.22ペリー艦隊に応募海兵隊員となる | |||
| 1852(嘉永5) | 9・11祖父ジョナサン死去 | |||
| 1853(嘉永6) | 6・10琉球那覇でベッテルハイムに会い、日本伝道、聖書翻訳について影響を受ける 7・11ミシシッピ号乗員として来航、江戸湾の測量に参加、上陸 | |||
| 1854(嘉永7) | 2・13(旧暦1・16)ペリー艦隊江戸湾に集結。2・24(1・27)江戸湾着。 3・4ミシシッピー号で28回誕生日。 3・8条約交渉のため上陸。 31(3・3)日米和親条約締結。6、艦隊は那覇、香港、シンガポール、ケープタウンを経由して米国に向かう。 | |||
| 1855(安政2) | 4・23艦隊ブルクリン着。5月除隊。10・10エリザと婚約。 11月マジソン大学予科コースに仙太郎と共に入学。23マジソン大学教授会、学生結婚を禁止する。 | |||
| 1856(安政3) | 4・14エリザと結婚。マジソン大学は退学決定。 5月ウエイン村教会に伝道師として承認。6月聴講生として復学許可。 12月聖書販売伝道でニューヨークにペリーを訪ね日本伝道の励ましを受ける | |||
| 1857(安政4) | グラマースクールの学びを終える | |||
| 1858(安政5) | 3・4ペリー死去。 10月マジソン大神学関係講座と哲学の演習聴講を許可さる。7・29日米修好通商条約締結。 11月長女ドリンダ誕生。 | |||
| 1859(安政6) | 2月ウエイン村教会ゴーブルを宣教師に任命.ABFM16回年会で日本伝道宣教師に任命。 6月シカゴからニューヨークまで五州に渡る募金旅行。 11・3ニューヨーク市レイトストリート教会で按手礼と宣教師任命式。仙太郎も挨拶し日本語賛美歌を歌う。 | |||
| 1860(安政7) | 4・1バルチック号横浜着。成仏寺へ。日本人教師を雇うが役人の妨害に会う。 「7newgoblepdf..pdf」をダウンロード | |||
| 1861(万延2) (文久元) | 1月困窮始まる。エリザ病に倒れ5週間臥す。4・12南北戦争始まる。8・30二女メアリ・フランシス誕生。 10月ブラウンの依頼により横浜の船員の礼拝で奉仕。 11月青年武士と十戒、主の祈り、信仰告白など翻訳。 「8goblepdf..pdf」をダウンロード | |||
| 1862(文久2) | 3月横浜居留地110番に家を建てて移転。4月ミションより帰国要請。エリザ英語塾。 8月4歳のドリンダコレラで死去。日本残留の決意をミッションにつたえる。 阿波藩にウォルッシュ商会よりセントルイス号(乾元丸)を斡旋。居留地商人に頼まれて靴修繕を専業化。 | |||
| 1863(文久3) | 聖書翻訳を進める。靴直しをしながら漢訳聖書の書き下し文を日本人助手に作らせる。(マタイ、マルコ、ヨハネ) | |||
| 1864(文久4) | 6月居留地150番に家を建築するが資金不足で中断。 7月三女エニー・オーセリア誕生。この年よりABUの方針に従った聖書翻訳に着手。 | |||
| 1865(慶応元) | 4月南北戦争終結。 5月150番の家完成。四福音書を訳了.ABSに出版援助申請。 | |||
| 1866(慶応2) | 2月、ABS、ヘボンにゴーブルの聖書翻訳を援助すべきか尋ねる。 5・30ABFM23回年会に四福音書訳了を報告。この年、エリザの健康すぐれず転地を勧められる。 | |||
| 1867(慶応3) | 1・13阿波、土佐藩との沿岸貿易をグラバー商会のダン船長に頼まれリジーアレン号で両藩士と共に出帆、家族同伴。16阿波着。31長崎帰着。 2月後藤象二郎と会い3月より「土佐商会」の教師となり、南山手B28番地に住む。 6月10日後藤、坂本竜馬と夕顔丸で上京。ゴーブルは学生と対立する。 8・13中国宣教師インスリー夫妻とエリザを連れ浦上キリシタン集落訪問.民家の教会堂で奨励。 26日、学生らと談判決裂、解雇される。 11・27米砲艦モノカシーの通訳となり長崎出帆。平戸、呼子、唐津、下関などの各地測量しながら兵庫へ向かう。 12・26兵庫着,旗艦ハートフォードに移り、ベル監督付き通訳となる。 | |||
| 1868(明治元) | 2・12長崎の印刷技術の発達に刺激される。長崎を出帆して 3・2横浜着。ヘボン辞書による聖書翻訳に本腰を入れる。 4月バラより居留地167番に小会堂と山手48番に居宅の建築依頼を受ける。 10月バイブルクラスを自宅で行う。午後は被差別部落でもローマ字による聖書講義を行う。ABUは資金不足のため英国バプテスト聖書翻訳協会にゴーブルの援助依頼。 | |||
| 1869(明治2) | 2月政府より東京に創設する大学の英語科の総主任,県からも公務の要請を受けたが両方断ったとミッションへ報告。 6月159番地に小屋を立て活字鋳造の機会を試作。BBTS(英国バプテスト聖書翻訳協会)150ポンド援助決定。ゴーブル人力車の発明。 | |||
| 1870(明治3) | 3月エリザの病状悪化。山手75Aに家を新築9月移転。BBTSより印刷機とローマ字活字3種到着。 5月政府の神道政策である伊勢神宮遷祀に怒りエペソ書翻訳を考える。 住居のないバラ夫妻のため75Aの新築の家を提供。12・23エリザ二人の娘と帰国。 | |||
| 1871(明治4) | 10・1バラと自分の1501番の店子日本人のことで争い裁判となる。 10日BBTSより100ポンド届く。 1月「摩太福音書」完成。 12・5バラとの裁判判決、勝訴143ドル入手。23日岩倉使節団と同船して米国へ向かう。 | |||
| 1872(明治5) | 1月太平洋上アメリカ号甲板で岩倉にキリスト教政策を進言。団員二名にキリスト教講義。15日サンフランシスコ着。19日「イヴニングブリティン」紙に使節団対応について意見書を投書。 3・13ウェイン村教会を家族で訪問。『摩太』を贈呈。各地で講演。 7・11イギリスへ.23頃、スポルジョン神学校で講演。イングランド、スコットランドを廻り日本伝道への関心を訴える 9・4。リヴァプール出帆、米国へ。 10月ABMU日本伝道区主任宣教師にN・ブラウンを任命、聖書翻訳事業を継続させる。 11月ABMU中国宣教師M・ノールトン、日本に立ち寄りゴーブルの悪評を聞く。 | |||
| 1873(明治6) | 1・6 サンフランシスコよりチャイナ号でN・ブラウンの家族と共に家族ともども日本に向け出航。 2・7横浜到着。9山手居留地203番に二家族で住む。 2・24キリシタン禁制高札撤廃。3・2高札撤廃後の第一主日「横浜第一バプテスト(浸礼)教会設立。ゴーブル書記となる。 7・13筆工石川寿一郎に本牧海岸でバプテスマを授く。国内最初のバプテスト入信者。 9・13岩倉使節団帰国。 ゴーブルの評判N・ブラウン、ABMUと対立。 12・5ゴーブル石川寿一郎とのことで教会を脱会。 | |||
| 1874(明治7) | 1月独立バプテスト教会設立。目を患い、水腫に悩む。「真道館」で説教、関東北部の者多く訪れ十数名の入信者生まれる。ゴーブルの購入していた山手75BをABMUに移譲。眼病悪化し、視力を失い翌年まで及ぶ。 | |||
| 1875(明治8) | 3月「真道館」未完成のままメソジスト宣教師マクレーに譲渡。 翌年にかけて元村日本人宅で英語を教えたが中断。 7・10日本基督横浜公会海岸教会会堂建つ。 | |||
| 1876(明治9) | 8・14札幌農学校創立。W・S・クラーク来日。 11月点字による盲人教育が東京に結成される。 | |||
| 1877(明治10) | 1・30西南戦争始まる。 9・3東京一致神学校設立。 | |||
| 1878(明治11) | 5月東京築地での宣教師大会に おいて聖書翻訳常置委員会の委員に選ばれる。 11月「東京日々」「読売」「伊勢」の各新聞に」自分の発明になる 人力車税の幾分かを下符するよう」東京府に願いを出したと報道される。目的は計画中の訓盲院 の資金のため。 エリザ婦人病のため病臥。 | |||
| 1879(明治12) | 3月エリザ半年の闘病生活後回復。 秋、ギューリックに雇われ聖書販売伝道者となり茨城房総地方を巡回(日当2ドル) | |||
| 1880(明治13) | <1・31埼玉県熊谷、千年亭,幻燈 伝道集会千名 3-5月水戸房総巡回伝道 7・2S・Rブラウン死去 11‐12月中仙道17日走破、琵琶湖まで平均100冊以上、続いて大阪京都で販売伝道。 | |||
| 1881(明治14) | 京都、取手、木更津、長崎、佐賀、鹿児島、国分、福山他 10・11明治14年の政変 | |||
| 1882(明治15) | 1・3岡山から神戸へ。7広島丸で横浜へ帰港。エリザ病気悪化。 5・1エリザ46才で死去。 | |||
| 1883 (明治16 | 1月肝臓腫傷のため九死に一生を得る.24N・ブラウン宛教会への再入会願いを出し許可さる。 12・19英国船レディ・ボーウェン号で全家族とカナダ・ヴィクトリアに向け出帆。23年間の在日生活に別れを告げる。 | |||
| 1884(明治17) | 1月ワイントン州ピアス郡タコマの三女エニ-の婚約者(スウェーデン移民)宅に一時落ち着く。 ウェイン村訪問、母教会で「日本の風俗と習慣」の講演。 11・1エニーとボーマンの結婚式の司式。 | |||
| 1886(明治19) | 1・1N・ブラウン死去 | |||
| 1892(明治25) | 4・日本バプテスト教会機関紙「おだやか」創刊号に本多庸一、ゴーブル夫妻の思い出寄稿。 同月バプテスト神学校 第一回卒業式。 5・31フィラデルフィア・ジャーマンタウンのバプテスト退職牧師施設「ニュージェントホーム」に8才年上のキャサリンとシアトルより来て入所。 10・22へボン帰国 | |||
| 1893(明治26) | 9・10ベンネットより日本の初期賛美歌についての質問に対してニュージェントホームから返事を書く | |||
| 1895(明治28) | ベンネットの求めに応じ,新訳ギリシャ語コンコーダンスと英文聖書全註解書をバプテスト神学校へ寄贈。 | |||
| 1896(明治29) | 1・17ニュージェントホームより退去させられる。 2月ミズーリ州セントルイスのバプテスト療養所に入る。 5・1エリザと同じ日に老衰で死去 69才。3日セントルイスのベルフォンテン墓地に埋葬。 キャサリンのその後の消息不明 |
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